時間泥棒に時間を奪われないための100の方法

エンデによって『モモ』が書かれてからはや四十余年、世の中には当時よりずっとたくさんの時間泥棒が蔓延るようになりました。
「暇つぶし」の為の道具が溢れかえり、フルタイムの仕事に追われて、あれこれやったつもりになってるうちに気付けば年の瀬。
今年、結局なんかやったっけ?というつぶやきがポツリと浮かぶのは、時間泥棒が一年365日たっぷりあった時間を持って行ってしまったからに違いないのです。

今年、とみに印象に残っているのは大手広告代理店の新入社員による過労自殺でした。悪いのはもちろん、道具のように社員を働かせ続けた会社に違いないけど、真夜中まで働いても暮らしていけるだけの都市機能の充実にも問題を感じます。日付を跨いでも、24時間営業の店舗では真昼間と変わらず食材が買えて、ご飯を作ることができるのはもはやアタリマエになってしまいました。
生活スタイルの多様化、ももちろん大事。だけどその為に拡張した都市機能にむしゃぶりついて甘い汁を吸うのは、決して生活スタイルを多様化させたい個人が中心ではないのだとまざまざと感じさせられました。
「夕飯が買えなくなっちゃうので帰ります!」と言って帰れるような社会になることはあるのかな、なってほしいと思います。
そして、そんな社会へ一歩踏み出すための方法をたくさん教えてくれるのが『モモ』なのです。

 

モモ (岩波少年文庫(127))

モモ (岩波少年文庫(127))

 

 この記事は2016年12月29日にブクログに投稿したものです。

shimirubon.jp

叙述ミステリのパラドックスに立ち向かう。

この本も残すところ、あと数ページ、そんなに長い作品ではなかった。
連続殺人のミステリは途中顔を覆いたくなるような描写も少なくなかったが、読みにくい文章ではなくすっきりと入り込んできた。
ついに主人公たちが、犯人に的を絞り現場に踏み込むその瞬間が訪れる。
だれが犯人か、ではなくどうやって犯人を見つけるかに眼目がおかれたミステリだと、その瞬間までは思っていた。
読み終わった瞬間に、何が起こったのか分からず喉から変な声が出る。
即座に再読。再々読してようやく意味がわかる。
やりやがったな!という笑みがジワジワと頬に浮んでいく。
叙述ミステリの醍醐味というのはそんな瞬間にあるのではないだろうか。

そして、ミステリを少しでも囓った人間ならば必ず陥るのが「叙述ミステリのパラドックス」だろう。

そのパラドックスには、鮮やかな叙述ミステリにたまたまぶち当たった瞬間から悩まされることになる。初めて叙述ミステリに触れた瞬間こそが心から叙述ミステリを楽しむことができる最初で最後の瞬間となる。

叙述ミステリに既に出会ってしまったあなた、ご愁傷様です。
まだ出会ってないあなた、このコラムを開いてしまってご愁傷様です。

叙述ミステリのパラドックスが悲劇としか形容できないのにはふたつ、理由がある。

ひとつは、叙述ミステリはその作品が叙述ミステリであると紹介された瞬間に叙述ミステリとしての機能を失ってしまうこと。
いちど叙述ミステリの味をしめたあなたは、さらなる叙述ミステリの愉悦をもとめて叙述ミステリを探す。しかし、「叙述ミステリ」であるという理由でオススメされている作品は叙述ミステリであると分かってしまった段階で、叙述ミステリとしての機能を既に失ってしまう。そのことに気づかないふりをしても、頭の裏側で、読んでいる作品が叙述ミステリであるという事実はしっかりと溶接固定されてしまう。あなたは叙述ミステリが叙述ミステリであると知っているがゆえに、叙述ミステリを楽しむことができないのだ。

もうひとつの悲劇はあなたが叙述ミステリの存在を知ってしまったこと自体に存在する。

「最後の一行であなたは凍り付く」「○○ページを読んだ瞬間、涙がとまらない」

あー叙述ミステリってる。完全に叙述ミステリです。
この売り方をする本がだいたい叙述ミステリなのを叙述ミステリを知ってしまった人間は知っている。それゆえに背表紙のあらすじから激しいネタバレを受けてしまう。
手に取った好きな作家の小説を読んでいる最中にも、不意に登場人物の関係が気になりだし、キャラクターの立ち位置を考え始めてしまう。結局邪推は邪推のままで、ストレートに物語は終結していく。
叙述ミステリのパラドックスに陥ってしまった人間は、普通の小説を普通に楽しむことすら許されない体になってしまうのだ。
普通の小説でさえそうなのに、ミステリを読むとなればその感情はひとしおで躍起になって文章のほころびを探し、行間を読みまくる。そして、初読で叙述ミステリを見破れば、その喜びに酔いしれさらに隠れた叙述ミステリを求めてしまうのだ。

叙述ミステリのパラドックスがかくも恐ろしい悲劇であることをご理解いただけただろうか。
かくいう私も、叙述ミステリに出会ってから、小説を疑ってかかる癖がついてしまった。純粋にストーリーを楽しむ喜びは奪われてしまった・・・かに思われた。

叙述ミステリのパラドックスを克服するたったひとつの冴えたやり方が一つだけ存在する。それは、叙述ミステリだと分かっていても、想像のはるか上を行く叙述ミステリを読むという方法がそれである。自分の乏しい脳みそを越える叙述ミステリに出会ったときの衝撃は一入であり、さらにその快感はあなたを次の叙述ミステリに導く。
しかし、次の瞬間またあなたは叙述ミステリのパラドックスの渦中に引き戻される。今度は新しい叙述ミステリの知識を身につけ、一回り太った頭で次の出会いを待つ生活に放り出される。
永遠に続く螺旋のなかで、ミステリファンは叙述ミステリのパラドックスの業火に灼かれ続けるのだ。

 

殺戮にいたる病 (講談社文庫)

殺戮にいたる病 (講談社文庫)

 

この記事は2017年12月22日にブクログに投稿した書評です。

 

https://shimirubon.jp/users/1673781

ただ、黙って微笑んでるだけ

先日の電車の中での出来事。

 

どうしても泣き止まない1歳くらいの男の子と、そのお父さんが私の近くに立っていた。

蒸し暑い日で、車内の冷房が効いているのかいないのか、よくわからないほどに空気がこもっていた。休日の朝だからか通勤のピリピリした雰囲気はないものの、それでも乗客のほとんどがムスッとした顔で座っていた。

お父さんは男の子を抱きかかえて、ドアと座席の角になった部分に立っていて、どうやらお父さんは、外の景色を見せて男の子を泣き止ませようとしているようだった。

男の子はずっと泣いているわけではなくて、甲高い声で断続的にワーとかキャーとか大きな声を上げるので、その度に近くの乗客の視線を集め、お父さんは申し訳なさそうにそれぞれに視線を送るのだった。

そんな中に、とても明るい声が響いた。

「あっついわよねえ〜嫌よねえ〜」泣いている男の子の近くに座っていたおばさんがそう言って、持っていた扇子をそのお父さんに差し出したのだった。つられたように、近くに座ってた女性もカバンから飴を取り出すと、男の子にあげて機嫌をとる。

それまで絶えず大きな声をあげて泣いていた男の子は、笑顔こそ無いもののキョトンと二人の顔を見ると泣くのをやめた。

お父さんがおばさんから受け取った扇子であおぐ風に不快感が吹き飛んだのか、声を上げるのをやめて心地好さそうに目を細める。

車内にはなんだか和やかな雰囲気が流れて、空気がガラッと変わったのを私は感じた。

そんな一部始終を、私はその横でずっと見ていた。ただの横ではない。真正面だ。

ただ、見ているだけだった。オロオロしているお父さんも、女性が男の子をあやす様子も、男の子がふたりの女性の顔を比べるように見る様子も、間近でただ、見ているだけだった。

男の子が泣いていることに不快感がないよ、と示していることになるんじゃないかと思って、多少曖昧に笑っていた。見ようによってはニヤニヤしているようにも見えたかもしれない。

ただ、見ていた。これから同じ場面に出くわしても、私はただニヤニヤしながら見ているだけかもしれない。

それ以上に私に出来ることはない。扇子も、飴も、私は持っていないのだから。

それが正しいことなのか、正しい振る舞いだったのか、私にはいまだに結局わからないでいる。

語り語られ、落語の可能性

 先日、立川志の輔師匠の独演会に足を運んだ際に思いがけない新作落語を聞くこととなって感激した。

時は江戸時代、罪人が島送りにされる護送船・高瀬舟の中で同心である庄兵衛が弟を殺したという男、喜助が語り出す咎を聞く。

言わずもがな、森鴎外の『高瀬舟』をベースにした。いや、そのものを読み上げる新作だった。

安楽死や足るを知るというテーマで語り出されることの多い本作だが、ショッキングなシーンが登場するにもかかわらず登場人物は語り語られ相対する二名のみである。
わたしはこの作品がよもや新作落語になるなんて考えた事がなかった。志の輔師匠が庄兵衛になるとき観客は喜助になり、喜助になるとき庄兵衛になる。そんな語り語られの関係を体感する文学体験は非常に刺激的だった。
思えば、近代文学の多くは語りの文学、あとの祭りの文学だ。
『こころ』で先生がみるのは、喉を搔き切るKではなく襖の血の跡で、太田豊太郎が目覚めるときにはすべての片がついている。
当事者は当事者たることが出来ずに、ただ誰かに語ることしかできない。
それはとても落語に似ている。

落語の中に『しじみ売り』という演目があるが、これはあるところであった事件を少年が語り出すところから始まる。当事者でありながら事件の蚊帳の外で物語はすすみ、蚊帳の外でストーリーが閉じる構造となっている。

また同じように人情噺『ねずみ』では、仙台の宿場で1番小さい宿「ねずみ屋」が、なぜねずみ屋になったのかという騒動を主人が語り出す、これもまた蚊帳の外の文学である。
古典落語のストーリーラインの多くは、誰かが『その場以外の何か』を語り出すところから始まる。そして、そのまま粛々と幕が閉じる場合もあれば、登場人物が語りの中に、ストーリーラインの中に身を躍らせて入り込み、まさに当事者として振る舞うこともある。そこに突如として、デウスエクス・マキナが登場することさえある。

語る落語、語られる落語。語りを超えない落語、語りを超える落語。

語りの可能性、新しい文学体験についてじっくり考えさせられる一席を体験できたことを光栄に思う。

 

山椒大夫・高瀬舟 (新潮文庫)

山椒大夫・高瀬舟 (新潮文庫)

 

 

志の輔の背丈

志の輔の背丈

 

この記事は2017年4月27日にブクログに投稿したものに加筆した書評です。

 https://shimirubon.jp/users/1673781

誰かに文章を読まれたい

誰かに文章を読まれるということは、自分を少し切り取って相手に食べさせることと同義だと思う。

自分のことを知らない誰かに、私を少しだけ食べさせたいというその一心で、思いついた時に文章を書きます。

少しでも美味しいと思っていただけたら、それだけで幸せです。