ももんじ通信

本と落語と時々博物館

コンビニはわたしに、生き方を教えてくれた。

生きている上で、どんな場面でどんな振る舞いをするべきか、どんな考え方をもって生きるべきかを自分以外が決定する場面は少ない、と思う。
なにを行う上でも行動を決定するのは自分で、だからこそ責任は自分にかかってくる。それが楽しくもあり辛いところだと思う。
判断の難しい場面や初めて直面したものに対して、私たちは時に随意に動くことができなくなってしまう。
コンビニ人間』である主人公は、行動の判断を下すことが難しい人種である。TPOによって、重ねる年齢によって振る舞いを変えることができない。だから、一度成功するとその行動にしがみついて、結果として失敗してしまう。そんな人種である。
そんな彼女が運命的な出会いをするのが「コンビニ」といういついかなるときにも変わらないTPOであった。コンビニを中心に構成された彼女は、「変わらない」安心感に包まれて日々を送る。
このような状況に立たされるのはなにも「コンビニ人間」だけではないだろう。時には学生として、アルバイトとして、就活生として、勤め人として人はみな安心できるTPOを持っている。新しい環境に踏み出す時には、入門本やインターネットサイトなどの「マニュアル」に目を通し、環境で浮かない手段を考える。
私たちはいついかなるときも何らかの形で「コンビニ人間」である。取り換えのきくパーツとしての人間として生きることに安住していると教えてくれるのが『コンビニ人間』なのだ。

 

コンビニ人間

コンビニ人間

 

 この書評はシミルボンに2016年12月30日に掲載したものです

コンビニ人間 - コンビニはわたしに、生き方を教えてくれた。 - シミルボン

 

オンナの中の「男の視線」

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数日前から「シンデレラ体重」という言葉が話題になっている。というか、もう下火か。

耳にするようになったのはここ数日だが、20年以上前に「たかの友梨ビューティクリニック」が提唱したのがこの「身長(m)×身長(m)×20×0.9」のシンデレラ体重らしい。BMIは18。立派な低体重です。

今回は「マイナビティーンズ」の記事「女子高生が目指している理想の体型」で紹介されたことがきっかけで、炎上しているという。

https://teens.mynavi.jp/blog/sp/20160316sha01?more

とりあえずやってみようと思って計算したら、身長をcmで計算してしまったので、えらいことになった。

「シンデレラ体重」と聞いたはじめには、以前にアニメキャラクターの体重が男性諸氏にとって意外なほど重い!と話題になったことを思い出したのだが…

けいおん!キャラの身長と体重が健康的と話題に

今回気になったのは、「シンデレラ体重」とキラキラしたネーミングで綺麗になりたい女性を焚きつけているのが女性だということ。提唱した「たかの友梨ビューティクリニック」も、マイナビティーンズで記事を書かれている方も女性である。

思えば、出会い頭に男性から体重を聞かれることなんて全くないし、仮に体重を聞かれたとしたらそんな方とは関わりを持ちたくはない。付き合いが長くなっても、人に体重なんて聞かれたことはない。

だとすれば、体重という数値で女性を縛るのは他ならぬ「オンナ」であり、「オンナ」の中の「男の視線」なのだろう。

女性を生きづらくする一端を担ってるのは結局女性なんだなあ…と「シンデレラ体重」でしみじみと思った。

なお、標準体重の出し方は、「身長(m)×身長(m)×22」。

ちなみに、ダイエット業界?美容業界?で横行する「美容体重」なるものは「身長(m)×身長(m)×20」だそうです。美容体重はBMI20の体重の出し方。ギリギリBMI18.5以下の体重に乗らない為の数値になっています。

個人的には、見た目のバランスが取れていれば、体重は何キロでもいいのでは?と思うのですが、そういうわけにはいかないのかなあ…

【今日調べた言葉】

紋切り型

紋を切り抜く為の型のこと。転じて、決まったやり方のこと。新しさのないやり方。

「紋切り型の〜」という形で使われるが、最近だと「紋切り型な〜」「紋切り型に〜」と形容動詞化されて使われる例も多く見られた。実際わたしも、形容動詞として使っていた。

調べたきっかけは昨日出かけた美術館のミュージアムショップで「紋切り型」を売ってるのを見たため。そんなものがあるのか!という驚き。amazonでも売ってた。初めて知りました。

 

小さくて使いやすい紋切り型豆紋210×10cm色紙50枚付き

小さくて使いやすい紋切り型豆紋210×10cm色紙50枚付き

 

 

参加URL

紋切り型とは - Weblio辞書

紋切り型(もんきりがた) - 語源由来辞典

 

 

不便なことは美しい

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週末に行きたかった展覧会の会期が終わってしまうとのことで、目黒の東京都庭園美術館で開催中の「装飾は流転する 「今」と向きあう7つの方法」に行ってきました。

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朝香宮邸の建物を使った美術館で、建物自体が展示物。館の裏手にはその名の通り広大な庭園まである美術館です。

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美術館の外観

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玄関前の獅子

 

平日の昼ということで、館内はかなり空いていましたが、小さなお子さん連れのお客さんがいたのが印象的でした。

館内には「ウェルカムルーム」という、現代美術をより身近に感じるためのコーナーがあり、お子さんにも現代美術に親しんでもらえるような企画が充実していたようです。

館内にはケースにも入れられていない展示物が剥き出しで至る所に置かれており、かなり緊張感がありました。建物も展示物として扱われており、壁に不用意に近付こうものならすぐさま注意が飛ぶ。仕方のないこととは知りながらちょっと窮屈かも…と思いつつ、確かに建物の「装飾」もいちいち美しかった。

ただし、撮影はすべてのエリアで可能だったので、バシャバシャ撮ってきました。似たようなお客さんも多く、写真の練習をしている方も結構いました。

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玄関のレリーフ

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シャンデリア

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暖炉のお魚

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妃宮デザインのダクトカバー

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広々とした階段ホール

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階段の硝子円窓

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2回展示室へ続く階段 

現代美術の展覧会にはなかなか行かないので、それぞれの作家さんがそれぞれかなり自由に空間を使って展示を展開していたのが衝撃的でした。

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一階の広い空間を大きく使った展示。

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2階玄関ホール。着ているような着ていないような。お尻が丸出しなのがツボ。

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レインコートの集団。生地の透け感が良い。

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部屋丸ごとを展示に。

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書庫に築かれた豆本の山とハシゴ。戦前の古書を使用か。金箔押しの表紙がキラリ。

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生活空間を活かした展示。

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座ることが出来る展示。

岡本太郎の「坐ることを拒否する椅子」を彷彿とするが、素材はシリコンゴムで座りごこちは上々。

展示を見ながら、頭の中にあったのは昨年インターネットの記事でみた「American Giant」の「快適でないパーカー」のことだった。

快適がいい、なんて誰が決めた? 全米で大人気「人類史上最高のパーカー」の重み - ライブドアニュース

このパーカーは、あえて不快適な着心地を追求することで快適さについて考えることを目的に売り出されたという。

生活する上での機能を重視すれば、すべてのものを装飾のないシンプルなもので揃えることで、生活を整えることが可能だろう。「装飾」はそんな快適さの考え方に逆行する存在だ。装飾性を重視すれば自ずと快適さは遠のく。

そうであることが自明であっても、人間は現在まで装飾を手放さなかった。 

「装飾」はこの上なく贅沢なものだ。あえて不快適さを選ぶだけの余裕が無ければ、人類は装飾を選ばない。

思えば、人間という生き物は、なんと装飾性に乏しい生き物なのだろう。見渡せば、人間以外の生き物はなんと装飾的なのだろう。鮮やかな色のイモムシ、見事なツノのカブトムシ、茶トラの野良猫、ダルメシアン、サイ、ヒョウ、ライオンにキリン…華やかな動物たちのなか、人間のデザインだけどこか貧相だ。

人類の装飾をここまで発展させたのは、そんな劣等感ではないかとおぼろげに考える。

これまで培われてきた装飾は、これからも様々な形で受け継がれて行くのだろう。その途中を立ち止まって眺めるような、そんな展覧会でした。

三日坊主とブログに書くほどでもないこと

三日坊主という言葉がこんなにも似合う人が自分以上にいるのかと、思う。

なんでもいいからポツリと呟けばいいのだ、と思うけども「それってツイッターじゃダメなの?」と頭の中の人が言うので「そうだね」と返事をしてそれっきり。

目下やってることと言えば落語鑑賞。これは少なくとも3日以上続いている。続いているどころか、その為に全ての時間を掛けていると言っても過言ではない。では、そのことを書けば良いのではないかと思う自分に頭の中の人が「行ってる会、逐一書くと、身バレするよ」と言う。身バレがなんだ!という勇気はない。

ま、書くことがなきゃ書かなきゃ良いだけ、そこまでよね〜と思いつつ、日々見つけた楽しいもの可愛いものはメモしてしまう。そんな感じ。

 

【今日調べた言葉】

ラミング航行

南極観測に行く船が、氷に全速で突撃して乗り上げ船の重みで氷を砕き進む方法。砕氷艦「しらせ」(二代)は1.5Mの厚さの氷を割ることができるが、実際の氷は3Mを超えることも。1回のラミング航行で進める距離は10〜50M程度で、時には全く進めない。2009年の「しらせ」ラミング航行は往路2042回、復路1372回の計3414回。これまでの最多ラミング航行数は56次航行(2015年2月1日〜)の5402回だとか。

参考URL

昭和基地NOW!!

宮﨑副長に聞く | 南極を切り撮る 十勝毎日新聞電子版PRESENTS

国立極地研究所 南極観測のホームページ│第56次観測隊のご紹介

しらせ (砕氷艦・2代) - Wikipedia

出典にウィキペディアがあるのはご愛嬌。

 

ラミングという言葉を調べたきっかけは、自衛隊定年後にラッパ漫談家として活動されているトリトン海野さん。2月18日にイッテQで南極の最高峰ヴィンソン・マシフに登る企画を見ていて、思い出した。南極に山があることさえ考えたこともなかったので目から鱗が落ちた気分でした。大陸だもんなあ…。

ラミングという響きはなんだかハミングみたいで軽やかだけど、実際はなかなかゴツい言葉である。

南極料理人

南極料理人

 

 

 

 

時間泥棒に時間を奪われないための100の方法

エンデによって『モモ』が書かれてからはや四十余年、世の中には当時よりずっとたくさんの時間泥棒が蔓延るようになりました。
「暇つぶし」の為の道具が溢れかえり、フルタイムの仕事に追われて、あれこれやったつもりになってるうちに気付けば年の瀬。
今年、結局なんかやったっけ?というつぶやきがポツリと浮かぶのは、時間泥棒が一年365日たっぷりあった時間を持って行ってしまったからに違いないのです。

今年、とみに印象に残っているのは大手広告代理店の新入社員による過労自殺でした。悪いのはもちろん、道具のように社員を働かせ続けた会社に違いないけど、真夜中まで働いても暮らしていけるだけの都市機能の充実にも問題を感じます。日付を跨いでも、24時間営業の店舗では真昼間と変わらず食材が買えて、ご飯を作ることができるのはもはやアタリマエになってしまいました。
生活スタイルの多様化、ももちろん大事。だけどその為に拡張した都市機能にむしゃぶりついて甘い汁を吸うのは、決して生活スタイルを多様化させたい個人が中心ではないのだとまざまざと感じさせられました。
「夕飯が買えなくなっちゃうので帰ります!」と言って帰れるような社会になることはあるのかな、なってほしいと思います。
そして、そんな社会へ一歩踏み出すための方法をたくさん教えてくれるのが『モモ』なのです。

 

モモ (岩波少年文庫(127))

モモ (岩波少年文庫(127))

 

 この記事は2016年12月29日にブクログに投稿したものです。

shimirubon.jp

叙述ミステリのパラドックスに立ち向かう。

この本も残すところ、あと数ページ、そんなに長い作品ではなかった。
連続殺人のミステリは途中顔を覆いたくなるような描写も少なくなかったが、読みにくい文章ではなくすっきりと入り込んできた。
ついに主人公たちが、犯人に的を絞り現場に踏み込むその瞬間が訪れる。
だれが犯人か、ではなくどうやって犯人を見つけるかに眼目がおかれたミステリだと、その瞬間までは思っていた。
読み終わった瞬間に、何が起こったのか分からず喉から変な声が出る。
即座に再読。再々読してようやく意味がわかる。
やりやがったな!という笑みがジワジワと頬に浮んでいく。
叙述ミステリの醍醐味というのはそんな瞬間にあるのではないだろうか。

そして、ミステリを少しでも囓った人間ならば必ず陥るのが「叙述ミステリのパラドックス」だろう。

そのパラドックスには、鮮やかな叙述ミステリにたまたまぶち当たった瞬間から悩まされることになる。初めて叙述ミステリに触れた瞬間こそが心から叙述ミステリを楽しむことができる最初で最後の瞬間となる。

叙述ミステリに既に出会ってしまったあなた、ご愁傷様です。
まだ出会ってないあなた、このコラムを開いてしまってご愁傷様です。

叙述ミステリのパラドックスが悲劇としか形容できないのにはふたつ、理由がある。

ひとつは、叙述ミステリはその作品が叙述ミステリであると紹介された瞬間に叙述ミステリとしての機能を失ってしまうこと。
いちど叙述ミステリの味をしめたあなたは、さらなる叙述ミステリの愉悦をもとめて叙述ミステリを探す。しかし、「叙述ミステリ」であるという理由でオススメされている作品は叙述ミステリであると分かってしまった段階で、叙述ミステリとしての機能を既に失ってしまう。そのことに気づかないふりをしても、頭の裏側で、読んでいる作品が叙述ミステリであるという事実はしっかりと溶接固定されてしまう。あなたは叙述ミステリが叙述ミステリであると知っているがゆえに、叙述ミステリを楽しむことができないのだ。

もうひとつの悲劇はあなたが叙述ミステリの存在を知ってしまったこと自体に存在する。

「最後の一行であなたは凍り付く」「○○ページを読んだ瞬間、涙がとまらない」

あー叙述ミステリってる。完全に叙述ミステリです。
この売り方をする本がだいたい叙述ミステリなのを叙述ミステリを知ってしまった人間は知っている。それゆえに背表紙のあらすじから激しいネタバレを受けてしまう。
手に取った好きな作家の小説を読んでいる最中にも、不意に登場人物の関係が気になりだし、キャラクターの立ち位置を考え始めてしまう。結局邪推は邪推のままで、ストレートに物語は終結していく。
叙述ミステリのパラドックスに陥ってしまった人間は、普通の小説を普通に楽しむことすら許されない体になってしまうのだ。
普通の小説でさえそうなのに、ミステリを読むとなればその感情はひとしおで躍起になって文章のほころびを探し、行間を読みまくる。そして、初読で叙述ミステリを見破れば、その喜びに酔いしれさらに隠れた叙述ミステリを求めてしまうのだ。

叙述ミステリのパラドックスがかくも恐ろしい悲劇であることをご理解いただけただろうか。
かくいう私も、叙述ミステリに出会ってから、小説を疑ってかかる癖がついてしまった。純粋にストーリーを楽しむ喜びは奪われてしまった・・・かに思われた。

叙述ミステリのパラドックスを克服するたったひとつの冴えたやり方が一つだけ存在する。それは、叙述ミステリだと分かっていても、想像のはるか上を行く叙述ミステリを読むという方法がそれである。自分の乏しい脳みそを越える叙述ミステリに出会ったときの衝撃は一入であり、さらにその快感はあなたを次の叙述ミステリに導く。
しかし、次の瞬間またあなたは叙述ミステリのパラドックスの渦中に引き戻される。今度は新しい叙述ミステリの知識を身につけ、一回り太った頭で次の出会いを待つ生活に放り出される。
永遠に続く螺旋のなかで、ミステリファンは叙述ミステリのパラドックスの業火に灼かれ続けるのだ。

 

殺戮にいたる病 (講談社文庫)

殺戮にいたる病 (講談社文庫)

 

この記事は2017年12月22日にブクログに投稿した書評です。

 

https://shimirubon.jp/users/1673781

ただ、黙って微笑んでるだけ

先日の電車の中での出来事。

 

どうしても泣き止まない1歳くらいの男の子と、そのお父さんが私の近くに立っていた。

蒸し暑い日で、車内の冷房が効いているのかいないのか、よくわからないほどに空気がこもっていた。休日の朝だからか通勤のピリピリした雰囲気はないものの、それでも乗客のほとんどがムスッとした顔で座っていた。

お父さんは男の子を抱きかかえて、ドアと座席の角になった部分に立っていて、どうやらお父さんは、外の景色を見せて男の子を泣き止ませようとしているようだった。

男の子はずっと泣いているわけではなくて、甲高い声で断続的にワーとかキャーとか大きな声を上げるので、その度に近くの乗客の視線を集め、お父さんは申し訳なさそうにそれぞれに視線を送るのだった。

そんな中に、とても明るい声が響いた。

「あっついわよねえ〜嫌よねえ〜」泣いている男の子の近くに座っていたおばさんがそう言って、持っていた扇子をそのお父さんに差し出したのだった。つられたように、近くに座ってた女性もカバンから飴を取り出すと、男の子にあげて機嫌をとる。

それまで絶えず大きな声をあげて泣いていた男の子は、笑顔こそ無いもののキョトンと二人の顔を見ると泣くのをやめた。

お父さんがおばさんから受け取った扇子であおぐ風に不快感が吹き飛んだのか、声を上げるのをやめて心地好さそうに目を細める。

車内にはなんだか和やかな雰囲気が流れて、空気がガラッと変わったのを私は感じた。

そんな一部始終を、私はその横でずっと見ていた。ただの横ではない。真正面だ。

ただ、見ているだけだった。オロオロしているお父さんも、女性が男の子をあやす様子も、男の子がふたりの女性の顔を比べるように見る様子も、間近でただ、見ているだけだった。

男の子が泣いていることに不快感がないよ、と示していることになるんじゃないかと思って、多少曖昧に笑っていた。見ようによってはニヤニヤしているようにも見えたかもしれない。

ただ、見ていた。これから同じ場面に出くわしても、私はただニヤニヤしながら見ているだけかもしれない。

それ以上に私に出来ることはない。扇子も、飴も、私は持っていないのだから。

それが正しいことなのか、正しい振る舞いだったのか、私にはいまだに結局わからないでいる。

 

こんにちはあかちゃん〈1〉

こんにちはあかちゃん〈1〉